塾長流「夢のかなえ方」

塾長新聞第3号

MOさん

みなさんは、どんな夢がありますか? 今回は、僕(塾長)の夢のかなえ方のお話をしましょう。

僕は小学生の頃から、どちらかと言うと部屋にこもるタイプでした。雨の日が好きで、家がそろばん塾であった関係で、画用紙みたいな紙がたくさんあって、それを束ねて、いろいろな本を作っていた思い出があります。例えば、「茨城の山」「茨城の道路」「ロケットの作り方」などなど、そんな暗い少年を虜にさせたのが、当時流行っていた歌謡曲でした。

小4の時、小4〜小6まで「学級委員長」を努めた。

小学、高学年にはレコードを集め出し、中学になると、フィンガー5に夢中。しかし、聴き方がちょっと変わっていました。晃のボイスも素敵でしたが、それより、曲の素晴らしさに気がついたのです。ところが、フィンガー5の曲を作った人本人達でなく、全部「外人」なのに気がつきました。そう、フィンガー5は、マイケルジャクソン率いる、ジャクソン5のフルコピーだったのです。そうなると、ジャクソン5に留まらす、いろいろな外国の曲を聴き始めたのです。

 

そして、運命の中2の時、ビートルズとの出会いでした。友達の大和田君が私にテープを聴かせてくれました。カッコイイ!すごい衝撃が体を突きぬけました。これは、なんなんだぁ!聴く曲すべてが新鮮ですぐに馴染んで体に吸い付いてくるのだ。それ以来、日本の曲はまったく聴かなくなり、洋楽の虜となっていきました。そして、そうなると、当然、歌詞の内容である、英語の意味を知りたくなり、その日から、思い立ったように明日の英語の予習をやりだしました。それまで、英語なんてまったく興味もなく、勉強などやったことはありませんでした。しかし、歌詞の意味を知りたいために、ひたすら英語をやりだしたのです。当時のレコードには、訳詩はついてなかったのが良かったのです。

この時の学習の吸収の速さは、今でもよく覚えています。「何かの目的があって自主的に勉強する」というのが、勉強の基本だと言う事を身をもって感じています。今の僕の塾の子供達にも、目的は何であれ、そういう何かをもって貰いたいと常に思っています。僕の場合音楽がそれだったのです。ですので、今でも英語の時間には、機会があれば、生徒の前で英語の歌を生演奏をします。それで、「あー英語って凄いとか、かっこいい」とか、感じてくれたら、もうその生徒は英語はOKだと思うのです。

ヤマハ、ポピュラーソングコンテストで優勝インタビュー

さて、それから英語への興味と同時に、中3になるとオリジナル曲を作り出し、音楽自体に興味を持ち始めていました。バンドも組み、コンテスト総なめとなりました。英語の興味もさらに続き、学校で習わないような単語まで、歌詞を訳す事により知るようになりました。音楽への興味もさらに深まり、どうしたらいい曲を作れるかという研究のため、音楽理論を勉強し始め、当時音楽の成績が2(5段階)だった僕が、「楽典」を持ち歩くのを音楽の先生が見て、驚いていたのを今でも覚えています。

高校になっても音楽、英語な毎日で、今度は自分ですべての楽器を演奏し、録音して曲を完成されることに興味を持ちます。すると、今度は、演奏を録音するために、いろいろな技術を知らなければなりませんでした。そして電気関係の技術にも興味を持つようになりました。それが、後に僕を電気工学科に進ませることになります。

自宅で音楽を作る

大学の学園祭にて。御茶ノ水の野外ステージでの演奏は格別だった。

 

大学時代になると、ある程度自分の英語にも自身がつき、どうしても外国に行って自分の語学力を試してみたい思いが強くなります。その結果、入学半年で休学し、アメリカに数ヶ月渡る事となります。小さい頃は、親の過保護で何をやるにも親が絡んでいましたが、アメリカに行くために、計画から手続き、パスポート取得、費用以外の事は、すべて自分でやりました。自分の自立がいきなりアメリカ渡航ですから、親にはさぞかし心配をかけた事でしょう。

アメリカでのワンショット。(古)

そして、右も左も分からないまま、自分の語学力だけを信じて、たった一人でホームステイしました。アメリカでのさまざまな出来事は、今思うと、よく今生きているなぁと思うほど、凄まじいものでもありました。しかし、その一つ一つが今の自分の原動力となっています。

就職もある光学メーカーにエンジニアーとして、順調にしたのですが、仕事をしていても考えていることは「曲を作る事」ばかりで、給料はすべて楽器や機材に注ぎ込まれました。会社でまともにやった事は、外人の来客の通訳くらいでした。とにかく、会社にいる時はつまらなくて、生き地獄のようで、周りの人を見ると、どんどん年をとってもこうやって会社で働いているんだろろうか? 自分の未来を見ているようでとても耐え切れませんでした。そして約1年で会社を辞める事になります。「必ず自分の曲を世に出します!」と張り切って。。

会社を辞めた次の日の事は、今でも忘れられません。東京での一人暮らしでしたので、朝早起きすることもなく、昼ごろグダグダ起き出し、外に出て食事をしました。黄色くどんよりした太陽が、僕を照らし、「お前昼から何やってんだ、みんな仕事してるんだぞ!」と怒られた感じがしました。 誰も助けてくれない、親にも相談せずに勝手に会社を辞めたのに、「金貸してくれ」などと、死んでも言えません。

東京での6畳一間アパートでの音楽制作シーン(キタナイ)

「どうしようか・・・」
ここで、僕を救ったのは、学生の時にした「勉強」でした。あの時代で時給2,500円、一日数時間で余裕で暮らしていけます。
もし、これが普通のバイトだったら、夢である「作曲家」の努力する時間も無くなってしまったでしょう。

とりあえず、自分に出来る事を探し、バイトをしながら曲を作り「売り込み」を続ける。そこで、自分が出来る事と言ったら「英語」を教える事。すぐに予備校に問い合わせて履歴書を送付。数日すると採用面接をするので来てほしいと呼び出されました。なんと、その場で、抜き打ちテストです。ハイレベルな問題を「5教科」一揆にやらされました。テストなんてもう、ずいぶんやってませんし準備もしてません。「何をやるにしても、簡単にはいかない」という事も思い知りました。 結果は「合格」で晴れて、明生学院の講師としてスタート出来る事が出来ました。一番最初の授業は、相手が子供でも、足が地に着かない思いだったのをよく覚えています。また、ここで、「学力」と「教える事」は、まったく違う事である事もよく分かりました。

ところが、教え初めて半年位経つと、新しい事に目を輝かせて吸収していく子供達を見て、教える事にとても”面白み”を感じるようになってきたのです。どうやったら、これを分かってもらえるか、とか、ここをこうすればもっと分かりやすくなるとか、自然に考えるようになってきました。会社にいた頃とは、ぜんぜん違います。生き生きしながら授業をやっていました。(今もまったく同じですが。)

しかし、また、悲劇の始まり。当時の僕の格好ですが、Gパンにヨレヨレシャツに気が向けばジャケット姿。ネクタイなんて会社で入社式以来数年もしてません。そんな姿を見て、室長が、「背広を着てネクタイをしろ」と言ってきました。当時、一般的な先生スタイルが大嫌いだった僕は絶対に言う事をききません。自分の格好は、人に言われる筋合いでない。などと、いきがっていて言う事を聞かなかったので、周りの(まじめ)先生からは、冷たい目で見られるようになりました。それより何より人に指図されるのが大嫌いなので、言う事など聞くはずがありません。

このネクタイは当時にしては細すぎ。下は黒のGパン。

それでも、格好が問題になってしまったので、そろそろ辞めてやろうかと思っていました。丁度、その時に生徒による講師の人気投票があり、問題児(野郎)である僕が、人気投票でトップになってしまったのです。「河原先生の授業は、わかりやすい。飽きない。何か違う。」などといろいろな評価を貰いました。思ってもみなかったので、とてもとても、嬉しかったです。 そこで困ったのは、室長先生をはじめとする、まじめな先生方でした。 もう、ほとんどクビだと思っていた僕を、辞めさせるにも辞めさせられない状態になってしまったのです。子供達の評価は絶対ですから。

 

それでも、スーツは着ませんでした。そして、そんなに格好にこだわるなら、きっぱり辞めてやろう。とその後、子供達には悪かったのですが、スパッと辞めました。明生学院よ、さようならー。今度は楽しく辞めました、なぜかというと「新しい塾」で教える夢があったからです。そう、それは自分の塾です。20年前の出来事でした。「河原塾」の原型「EMSカワハラ」です。

その頃は、大手の塾はほとんど無く、自由な塾運営が可能でした。今の英会話スクールなどでやっている教育は、当時、小学英語ですでにすべてやっていました。 今、その生徒達の中からは、塾の授業がキッカケで英語の先生になった子もいます。

ところで一方、作曲家として「世に自分の曲を出す」という夢は、まだ持っていました。 塾の仕事と完全に両立して、先の見えない夢に向かって、がむしゃらに努力をしました。しかし、この業界は、裏の部分も多く、まじめな僕は、何度もだまされながら、落ち込みながらも、苦しんで曲を作る毎日は続きました。そして成長していったのです。 25才のそんなある時、大学の先輩が、あるレコード会社のディレクターに僕の曲を聴かせたらしく、実際に会ってみたいとの事でお会いしました。「来週、清水宏次郎のプレゼンがあるので、火曜までに**風の曲を作ってみて。」という課題を出されました。プロの作曲家というのは、ただ曲を作るのではなく、期間内に、相手の思うものを提供しなければならない。」という事なんだな、と悟りながら、必死に仕上げました。出来上がったものを聴かせると、その場で、「これOK!」と合格を貰いました。それが僕の作曲家としてもデビューで、直後に結婚、その後も、数曲CDが世に出ました。

<塾長の主な作品>

 ●清水宏次郎「眠れない」
   記念すべきデビュー。これで作曲家の夢を達成した。

 ●アニメ・ サイレントメビウス「イメージソング Struggle for love」
   初シングルCDとなった。当時の人気アニメのイメージソング、ヒットチャート10位台まで上昇。

 ●坂上香織 「ステキな夏の迎え方」 「ひとりぼっちになりたくて」
    周りの作曲家に注目、超一流の作家(来生たかお、財津和夫、後藤次利、吉田拓郎、平尾昌晃
)の一人です。
   アイドルの楽曲も担当。この辺で、仕上がりイメージが自分の完成イメージと欠け離れているため、嫌気がしてくる。

 ●少年隊 「君がいたから」
   この曲で完全にやる気をなくす。


 ●松田聖子「Yes No No」 「たかの由梨ビューティークリニック」のCMソング
   これは、本当はシングルCDになるはずだったのだが、聖子の事務所移籍問題がありCDにならず。TVCMのみ。

 ●池袋エステCHIARA イメージソング 「airwave」「voice of world」
   ずっと休止していたが、依頼にてちょろっと作った曲が2曲採用されてしまいました。

夢がかなったCD達。作曲家としてクレジットされる。


作曲家としての夢が達成され、アイドルの楽曲を担当する頃から、業界とはこういう物なのかと、ある意味悟り、意欲が薄らいで行きました。音楽は僕から一生切り離せないものですが、 その後、今は、本格的に次の夢に向かって突進しているのです。それは、「凄い塾」を造ることだ。凄い塾とは何か? それは、20周年を迎えた今でも大きな課題だ。 しかし、この夢は、永遠に終わらないはずだ。なぜか、それは、僕が塾長だからだ、誰にも指図されない、しかし全て自分でやって行かなければならない。僕は、今でも毎日勉強している。さまざまな本を読む。講習会に行く。全ての目的は、自分の夢に近づく事だ。 「河原塾」が大好きだからだ。自分のための勉強は永遠だ。決して止まらない。

こうして、自分の道を考えてみると、自分の生きていく「方針」、「生活の糧」となっている事、「自分を強くしている事」、出来る事はすべてが「好きな事」を、とことんやった結果だという事だと思います。 と同時に、与えられた勉強もしっかりやり、興味をもった勉強はとことん追及する。をしていたので、何度か、コケた時にそれで終わらず助けてもらえたのです。仮に好きな事だけやって、勉強をしなかったら、今の自分は無いと思います。勉強のおかげで、きちんとお金を稼げるバイトが出来、夢に向かって時間を作れたのですから。僕の周りにも、夢をただ追いかけ、それだけしかしなかった人が潰れていくのを見ています。

 「勉強することは、形を変えて何倍にもなって必ず自分に返ってくる。」

 「勉強することは、夢を実現させることに最も近道だ。」

 「勉強することは、何をやるにしても全ての基本になる。」

 「勉強することを、楽しめれば間違いなくそれでメシが食えるようになる。」